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☆ Smile KSW ☆

俳優クォン・サンウ氏のファンであるnatuの日常のつぶやきブログです。 
カク・キョンテク監督 カンフル原作
映画「痛み」の動画がまとめられているページを見ていたら、

コチラ

この作品は、やはり“クォン・サンウ主演”というより、

カク・キョンテク監督作品だと、つくづく思いました。


ロッテシネマ系の映画館で、スタッフの方が着ているTシャツも、

Tシャツ

「カンフル原案(原作) カク・キョンテク 監督

痛み    秋夕 大封切!」  と、なっています。

俳優の名前は何処にもなく、やはり売りは原作の作家さんと監督さんなんだと。



下の動画の中で、俳優さん達が口々に「ヨル ポン」と、言っているのは 

「10本」という意味で・・・・

監督さんに縁ある方が、試写会に大勢いらしていたんですね~。





監督にとっても、サンウくんにとっても意味ある10作品目。


記念の映画になりました。


一方、気になる興行は・・・・


先週末17日の集計では・・・・


'最終兵器弓'は 16日 357館に 4万7559人(累積 634万4298人)

'家門の光栄4-家門の受難'16日 367館に 4万4108人(〃 170万2901人)

'痛み' 16日 269館に 2万2063人(〃47万2927人)

'パポシのペンギンたち'16日 432館に 2万796人(〃48万8822人)

'惑星脱出:199開館で 1万930人(〃256万6960人)が見た. (8月17日封切)


ハリウッドホラームービー 'ファイナルディスティネーション5'(1万762人·累積 173万4018人)
ハリウッド新作ホラームービーシャークナイト 3D(9477人·〃累積 2万758人)

家族スポーツ映画チャンプ'(9428人·〃累積 36万1282人)

カップルのアクションメロー '青い塩'(8907人·〃51万685人)

ハリウッドアクションブロックバスター 'コロンビアよ'(8474人·〃51万685人)




そして、カンフルと言う方がいかに韓国では人気作家なのかと言うことが良く分かる文がありました。


続きにお借りします。


映画をすでに見た方、ネタバレOKな方だけ、お読みください。






~~~~~~~~~~~~~~~



クァク・キョンテク<痛み> -メローの中に含まれたジャングルの悲劇


<痛み>がどんな映画なのか知らなかった。

たいてい一編の映画を見る前あらすじは見て行くのが私の長い間の習性だから

監督が誰なのか、あらすじが何か、ジャンルがどうであることはかもしれないまま

映画館へ直行したことは恐らく近ごろまれな奇行でなかったか?

チケット売場に貼ってあるポスターを見て、胸が痛い愛の物語が展開するはずという点を確認した。

そしてクォン・サンウ、チョン・リョウォンは私にそのように深い俳優でもなかった。

引き返そうかあるいは他の映画を見なければならないだろうか?

結局、日曜日の熱気でいっぱいの上映館中に挟まって、<痛み>を見てしまった。



カンフルはいつも感じることだが、格別な深さを持った漫画家という気がする。

彼の漫画を何編も見てはいないが(たくさん見てこそどんな作家をも評価できることではない)

いつも日常と人間に深い愛情を入れたりした。

カンフルは私の同じ年頃の作家なのに深さと感性を同時に充足させるとは驚くべきだ。

彼の漫画は普通の散文のように日常のささいなことらをまた見て回るようにする力がある。

それは創作者にはとても貴重な能力だ。

名作は遠い宇宙の話でなく私たちの中の日常に位置した顔なじみである風景らにかくされた真実を入れるのだから。



映画はすべての芸術ジャンルの中でやはり協業が重要なジャンルという気がする。

どれだけ一つの要素が傑出しているといっても良い映画が作られはしない。

反面文学は全面的に作家に寄り添っている。

それで万人が肯定するほどの成功的な映画はそんなにまれかも分からない。
(この映画の専門家評点は60点もならなかった。 私は根本的に映画専門家を信用しないけれど..)

だが、その言葉が映画を作るすべての要素が最高でなければならないということではない。

その中で卓越した何は必要な法であるから。

クァク・キョンテク監督は優れた監督で、クォン・サンウとチョン・リョウォンの演技を誘って上手だった。

クォン・サンウの優れた演技力に比べて、過去彼の私生活によって

彼を好んではいないが演技だけは認定したい。

反面、この映画が成功した1等功労者はやはりカンフルというストーリーテラーの感性に起因する。



交通事故のために家族皆を失って一人で生き残ったナムスン(クォン・サンウ)は

その後精神的衝撃で痛みを感知する能力を失う。

彼は殴られても痛みを感じることができなくて血流しても恐怖を感じない。

物理的な痛感覚をなくした人間はそこで終わらないで、内面の感性さえ破壊されてしまった。

彼は他人の痛みに共感できなくて、悲しみに涙があふれない。

それで彼の職業は自害恐喝団で自身のからだを自害して他人を威嚇して

恐怖感を抱かれて金銭を恐喝することだ。

相手役ドンヒョン(チョン・リョウォン)は不治の病を病む。

血友病、一度血を注げば血液が凝固しない。

彼女に傷と痛みはまもなく死を意味する。



ひとりは痛みと傷が日常事だが、ひとりはそのすべてのものを避けてこそ暮らせる。

その二人の状況はとても不調和を起こすが、彼らは一つの共通した渇望を通じて連結されるほかはない。

彼らが持ったのは病気にかかったからだと内面の傷という漸移だ。

よそのもの集まりの都市、ソウルは生存競争がそのどの空間より激しい。

皆がお互いに潜在的な敵になる所.

この敵対感の特徴は金持ちと貧者の構図から出ない。

自害恐喝団ナムスンは社債借金を受け取るために

また他の社会的弱者のアクセサリ露天商のドンヒョンを恐れ反駁することだ。

その社会の支配階層が設計しておいた構造的矛盾は彼らの間の同質的階級意識を解体させる。

そこに愛と共感と理解されて位置することができるだろうか?



映画は舌は短いが発展した演技力を見せるクォン・サンウと

比較的無難に血友病患者役を消化するチョン・リョウォンのおかげで

成功的なメロー物に展開して観客を圧倒する。

映画あちこちで監督の演出力よりはカンフル漫画の感受性が感じられる瞬間がある。

映画は漫画が見せる絵らを一場面ものがさないというような跡らを示す。
(最後のシーン、カンフル漫画でよく見てきた夜空の雪が降る風景を見よ)

お決まりのメローラインの展開にも観客の涙腺は相変らず乾かなかったようだ。

映画が終わる頃、涙があふれる観客等を見るのはやはり悪くない。

うんざりしたのをうんざりするように見えないようにする力が映画<痛み>中にはある。



ディテールでの男女俳優の演技力、主人公の悲劇的な最後、

主人公と観客皆を没入するようにするこまかい小道具ら

(家族の写真、皿、思い出が宿った家の空間ら)がある。

ディテールを生かした時、なじむメロー物もいくらでも新しいロゴ見慣れない風景らを

創造できるということをこの映画は証明する。



"いくら殴られても、いくら血が出ても痛くなくて。

ところでお前が泣けば胸が裂けるようで" (ナムスンのセリフ)



だが、カンフルの感性がメロー案にだけあるのではない。

カンフルはそれとなく社会のあらゆる不条理を投射することができる作家だ。

それで彼の感性は安モノではないのだ。

彼の話は貧しい男女が難しく愛にゴールインして悲劇的最後をむかえる、

ありふれた骨子だがそれがみなでないことを自ら表わす。

メローという外皮を抱き合わせ包む内部の作家的問題意識を感じることができないならば

この映画の全てのものを摂取、消化したことということはできない。



メロー映画は悲劇的に終わってこそ観客が流した涙に補償でもするのか?

その通り。

映画<痛み>は完ぺきな悲劇を見せる。

血友病患者のドンヒョンさえ破傷風菌がいっぱいであるクギにささって血を流す。

エンディング ロールが上がってくる画面上で悲しいイム・ジェボムのOSTが流れる。

観客の困難に陥って流れる涙に加速度を加えるこの驚くべきサービス、最高額ではないのか?



ソウルは冷酷な都市だ。

家族を失って衝撃で痛みの感覚を喪失した自害恐喝団は

サービスで動員されて一党幾十万人に非業の死を遂げるだろう。

世の中に頼る血縁がない血友病患者は高い薬の価格をまかなえられなくて

やはり路上で命を終えるかも知れない。

この映画の悲劇点はメロー的であり同時に社会的だ。

相変らずそのように切迫したこれらが一杯な空間がすぐにソウルだ。

だが、彼らが耐えられなければならない世の中をそれより

もう少し暖かい空間で作るのはその持ったことない彼らの愛と理解のようなことであった。

映画のある中心でナムスンは素直に告白しないか?

もう少し早い時に、誰か私の痛みを理解して見て与えたとすれば、

そのような一言を渡したとすれば自身の人生は十分に変わったことと話だ。



だが、ソウルという空間に必要なことはそれだけではないだろう。

個人の共感と愛の自家発展はいつも限界を持つ。

より暖かい空間になるために、私たちはより功績であり根源的なものらに注目しなければならない。

最近私たちは市民を相手に自身の政治的目的を成し遂げるために

驚くべき演技力を誇示する人を見たし、

目に見えない本質的なことよりは顕著な非本質的な外観に偏る行政を見たし、

官職を出世街道のための飛び石で利用するそのような人を見た。

そのような空間の市民という結局誰も私に関心と愛を与えない、

ただ一言の応援も渡さない、ジャングルの中に住むことになることだ。

なぜなら'人間的社会'になるか'動物的ジャングル'になるか、は

選択の問題でありとても現実的な問題であるためだ。

それは政治的なことであり政治的であることは最も現実的な問題だ。



焦点がない孤独な ナムスン(クォン・サンウ)の目を見たのか?

世知辛い世の中に一人で立っている痩せっぽちドンヒョン(チョン・リョウォン)が見えるのか?

カンフルはメロー劇中にソウルというジャングルの悲劇を隠喩的に入れた。

貧しくて痛くて苦痛なことでなく、応援の一言渡すことはできないジャングルなので痛いのだ。

彼の漫画の本質的感受性はすぐにこうしたところにある。

映画館を抜け出して目じりを濡らす観客がただ悲劇的愛のために泣かないことを願う。

より本質的な悲しみは他の所に隠している。  2011.09.18


コチラから、転載させていただきました。


私も、まったく、この通りの 鑑賞後の感想でした。



今日もこれから仕事です。

たくさん遊んできたから、たくさん仕事をしなければなりません^^



行って参ります!




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