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☆ Smile KSW ☆

俳優クォン・サンウ氏のファンであるnatuの日常のつぶやきブログです。 
映画「痛み」の 裏にあるもの
今日は、連休の最終日。

みなさんは、どんな連休でしたか?



私は、元気は元気なのですが、とても忙しく

きめ細かなブログの更新が出来ずごめんなさい。



わが家の家族は今月に夏休みをとっていて、

家族のペ-スに合わせなければならなかったり、

運動会のお手伝いのボランティアや義母のホームの行事、

空き家になっている実家の管理とか超多忙な日々を過ごしていました。



その上、玄関、廊下、リビング、一部の個室のリフォームや

「痛み」の封切に合わせて韓国旅行など。

いくら時間があっても足りない忙しさでした。



その上、お借りしていたDVDも早い所見終わらなければと

連日連夜、意欲的に頑張っていた9月(笑)。


振り返ってみると、我ながらよく乗り越えたと思います^^



9月は夏の疲れが一気に出る時期なので

ここらでのんびりしたいところですが

お引き受けしている仕事やボランティアは待ったなしに

押し寄せて来ます。


サンウくんも大切ですが、社会的責任も果たさなければですね^^

しばらく、じっくりブログの更新が出来ないかもしれませんが

ごめんなさい。



さて、映画「痛み」がラブロマンスというより、社会問題の伏線があると

ずっと言われて来ましたね。


続きは、関連の長い記事ですので、ご興味のあるかただけどうぞ。

これは、とても韓国らしい記事です。


感性メロー‘痛み’…多くのことが隠された映画であった

▲オ・ドンジンのあらかじめみた映画後ほどみた映画<痛み>
<痛み>が窮極的に話そうとするのは
まさに私たちがすでに無感覚なことは社会的痛みに対することだ。

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秋夕(チュソク)に大きな課題を狙って封切りしたためなのか<痛み>は多くのことを隠している映画だ。 この映画はあたかもクォン・サンウとチョン・リョウォンという二人のスター級俳優が見せる切ない恋愛談のように広報された。

<痛み>がラブストーリーであることには違いない。 だが、それが全てではない。 ところでそれがメインであるかのように広報された。 <痛み>はカンフル作家の、これから描かれようとしている漫画を原作としている。 十七ページ程の長さのトリートメントを原案としたというが、それならこれは<バカ>(2008)や<あなたを愛しています>(2010)のような前作のようにカンフル作家の作品世界に絶対的に依存している映画とはいえない。

演出のクァク・キョンテク監督とシナリオを使ったある修練作家まで含めて、そのような3者の絶妙のチームワークが<痛み>というウェル メード映画を誕生させたわけだ。 商業映画というのは、そのような過程を通じて作られることだ。 誰か1人によってのみ作られるのではない。 そうしたのは作家主義映画だ。

秋夕ということで、何かと肩にいっぱい力だけ入った、とうてい低級で見ることはできない映画が続出する中で(その一方でどんなに弁解はそんなに多いのか),<痛み>のように映画語法と文法を正確に守った映画に会うのは新たに嬉しいことだ。

<痛み>を見ていれば中堅監督の物静かな底力が感じられる。 安定したプロダクション過程が描かれる。 この頃にはこのように正しくなされた映画に会うのが容易でない。 中途半端で熟していなかったり、自分がすごいことを作ったと勘違いする奇異な人々の作品や、過大包装されていたり、最初から詐欺を働く映画が並んでいる。

<痛み>は外観上このように読まれることになっている。 ‘幼い時期交通事故で痛みを感じる感覚が麻痺した男ナムスン(クォン・サンウ)と血友病を病んでいて小さい傷にも生命が危険なこともある女ドンヒョン(チョン・リョウォン)が会って愛する話’というものだ。 だが、そのような話などはこの映画に似合わない。 それは善意の詐欺だ。

恐らくこの映画中に隠しておいた深い傷に対する話をあらかじめ取り出しておきたくなかったためであろう。 そうした点でクァク・キョンテク監督とカンフル作家、そしてある修練作家は互いに意見を合わせただろう。 <痛み>の話は一地点に向かって走って行く。

そしてそれは見る人々にとって忘れていたことに対するまだ終わらない、ある事件に対して記憶するようにさせる。 忘れた惨事がまた浮び上がる。 その‘惨事’で実際にあんなことがあったと思った気がすることになる。 <痛み>は私たちに忘れた痛みをもう一度自覚するようにさせる。

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ヨンサン惨事に向かっていく話、その真正性

痛みを感じることはできないナムスンは同じ動機で朝鮮族出身と見える先輩ボンノ(マ・ドンソク)と取り立て業者仕事をして生きていく。 言葉が取り立て業であってこれは結局解決者の役割だ。 人々を急き立ててお金を受け取ることと、その過程が真に暴力的だ。 ボンノはお金を返すことができないあるいはお金を返さないで度胸で持ちこたえようとする人々の前でナムスンを容赦なく鋭く傷め続ける。

関係ない。 いくら殴ってもナムスンは痛くない。 血が流れて満身瘡痍になるナムスンを見て人々はおじけづいてお金を吐き出すことになる。 ナムスンがドンヒョンに会うのはその過程からだ。 市内あちこちで露店をしながら生きていくドンヒョンはこの方、四方に借金地獄だ。(後ほど分かってみると、亡くなったご両親まで含んで、途方もない治療費を耐えられることができなかったためだ。)

ドンヒョンは既にボンノとナムスンらのような取り立て業者職員らに苦しめられて生きる。 ドンヒョンとナムスンはそのような過程で会うことになる。 そして普通ならば理解することはできない、成り立つことはできない関係が作られる。 両者に愛が始まる。

愛は結局差の克服を意味する。 すべての愛は男と女、支配と被支配、社長と職員、年齢の高い人低い人、さらにこの映画のように債権者(債権代理人)と債務者の間で広がる。 愛の物語はそれで結局差に対する話で始まって差がなくなることで終わる。 現代社会でいつも愛を叫ぶことになるのは、直ちに資本主義の社会的矛盾を解決できることの唯一の方法であるためだ。

映画はナムスンとドンヒョンが次第に近づいて、密着して、一体になっていく過程をいくつかのエピソードで分けると見せてくれる。 そのようなエピソードはいくら新しく整えようとしても陳腐なはずだ。 二回ぐらい戦って、一回ぐらい二人とも相手の思いがけない行動に驚くことになって、二回ぐらい感動して、それで結局一度は寝ることになる話の構造だ。

こういう話ならば多少明るい感じを与えなければならない。 <痛み>はその過程のエピソードを過度に人工的にならないよう努力した跡が歴然だ。 比較的リズミカルに両者の恋愛談を飛び出す。 クァク・キョンテク監督の老練な演出が伺える大きな課題だ。

<痛み>が描こうとするのは底辺人生の二人の男女がどのように愛して生きていくかだけには留まらない。 <痛み>の話は事実ヨンサン惨事(ソウル、龍山(ヨンサン)再開発撤去過程で住民と警察が衝突して住民5人と警察1人が死亡した事件)から始まったように見える。 恐らくカンフル作家の原案はその残酷な事件を初めてのページで扱っていたかも分らない。

龍山(ヨンサン)で人々が死んだ。 その中には撤去サービス院があった。 ところでそのサービス院の中では数奇な理由を持った人がいた。 ところで話をヨンサン惨事を見せることから始めることはできない役割だ。 カンフル作家とクァク・キョンテク監督はその話を賢く、後回しにする方式を選んだ。 映画の中の事件が次第にヨンサン惨事側に帰納される方向を選んだ。

劇中二人の男女の愛の物語が悲劇的事件に向かって走って行くようにした。 持つものがない二人の男女を厳酷な資本主義の韓国社会がどのように圧迫して、どのように屈服させて、どのように悪い仕事をするようにするかを見せる。 それでどんな結果をむかえることになるかを見せる。 二人の男女の最後の場面はそれで胸をしびれるようにさせる。 <痛み>が窮極的に話そうとするのはすぐにそのように私たちがすでに無感覚なのは社会的痛みに対することである。

ちょっと見ると、映画はナムスンの形態を通じて撤去民側よりは撤去サービス院側に視線を置いているように見える。 だが、かえってそれでこそ撤去民=被害者、サービス院=加害者という単純二分法が解消される。 この映画で世知辛く戦う両側皆生きるは被害者だ。 被雇用者だけのことだ。 現代資本主義社会で資本家は戦わない。

労働者と労働者が戦って、その過程で少しだけ上位にいる側の(あるいはもう少し権力を持っている)労働者が極悪な役を担うことになるだけだ。 青春男女の愛の物語を描くふりをしながら、事実は再開発撤去という私たちの社会の暗い裏面と底辺人生らの疲れた暮らしを描いているという点で<痛み>は少しひっくり返してみなければならない作品だ。 クォン・サンウとチョン・リョウォンが愛する姿はそれで多少ファンタジーのように見える。

二人の男女のように数奇だが切なくて、短いが強烈に愛そうとすることは、支離滅裂になった生活を送っていくすべての人々のロマンだ。 二人のキャラクター、衣装、表情などなどが漫画のように感じられるのはそのためだ。 カンフル作家の漫画カットのように映画は時には非常に軽快に、時にはきゃっきゃっと笑うようにする程コミカルに、時にはチョン・ギョウン イメージでぎっしり埋まる。 映画はかなり悲劇的な話を含んでいるが外観だけは正反対の姿を持とうと努める。

ところでその不均衡が逆にリアルに感じられたりもする。 人生は必ず悪いことだけでぎっしり詰まってはいない。 それでも良いことが連続することでは決してない。 良いことと悪いことは双曲線をひいて交差するはずだ。 人生はいつも悲喜劇が上下に揺れれ動く。 闇と明るいことは共存する。 漫画のような愛の物語と撤去闘争と同じ資本主義の悲劇は共存が可能だ。 それは決して互いに別個の世の中の話ではない。

痛みのない男、痛みが激しい女

ナムスンが幼い時期事故に対するトラウマで痛みを感じることができないということ、ドンヒョンが血友病のために少しだけ触っても傷を負って出血するといった人物設定もやはり単純に見ることだけではない。 ナムスンは自身の肉体ぐらい精神世界も荒廃する。 痛みを感じることができない。 社会的痛みという感覚を失って久しい。

ドンヒョンは正反対だ。 彼女は自身の肉体ぐらい、いつも世の中を眺める方式が痛みだらけだ。 彼女がいつも優しくて肯定的な性格を維持できるのは周辺を痛く感じるためだ。 周辺と平和に共存できるのもそのためだ。 実際に映画で彼女が露店をする空間は真冬にもかかわらず奇異にもそんなに寒そうだったり孤独に見えない。

向かい側には移住労働者(マブプ)が商売をする。 推量するに隣の席で商売をする女はその移住労働者を片思いするようだ。 この課題で映画は多くのことを説明しようとしないけれど、社会的痛みを自覚して感じるということこそ逆説的に人生を強硬に作るところということを見せる。

映画が後退りするほどナムスンは自身に集まるげんこつと足蹴り、棒洗礼を痛く感じるように見える。 解決者の仕事を辞めてスタント仕事を始めようとするナムスンにボンノは一件だけしようとそそのかす。 ナムスンはこれ以上こうしたことで自身を訪ねてこないでくれという。 ボンノはナムスンに女ができたのかと尋ねて、このように話す。 “ところで愛がご飯食べさせてくれはしないんだよ。”

もちろんナムスンは相変らず痛くない。 だが、人々が痛いことを、いつも傷だらけとことを悟ることになる。 ナムスンは痛みを感じることができないが痛みを認識することになる。 もう彼が痛く感じ始めるのは自身でなく世の中だ。 ナムスンはドンヒョンとの愛ですぐにその点を悟る。

<痛み>は無感覚に飛び交って現代社会を生きていく人々に迂迴的でそして童話的に警鐘を与えようとする映画だ。 あたかも針で一点をゆっくり刺すような映画だ。 <痛み>は決して痛みなしで見られない映画だ。
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2011/09/25 Sun| | [ edit ]
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2011/09/26 Mon| | [ edit ]
○○○○さん♪
お勉強、すすんでいるんですね?
楽しいのは何よりです
頑張って下さいね^^

開設されたら、お知らせくださいね^^
楽しみにしています♪
2011/09/26 Mon| URL | natu [ edit ]
○○さん♪
昨日は、疲れでうたた寝してしまい
セレモニーの開始時間に間に合いませんでした

今日、会合で一緒になった何人かのお仲間も行ったそうで
すごい人で、何も見えなかったそうです

今日も、あの二条通り商店街に行って来ましたが
なごりの万国旗が、はためいていました(笑)

サンウくんの最後の舞台挨拶、
様子を想像するだけでジーンときます
たとえ、劇場にかからなくなっても
地方の街のお祭りとか、テレビとか
色々な場面で、これからも親しまれたらと思います

ツイッターの画像を、このブログにも
お借りしたいと、いろいろ試みましたが
残念ながら、技術がなく・・・・
あの画像は、どうやら日本人の方がアップされているようですね

私は、ツイートまでは、なかなか手が出ませんが
便利な世の中になりました^^
2011/09/26 Mon| URL | natu [ edit ]
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